合氣道への問いに対して
    ― 合氣道問答集 ―
                <武産合氣會 指導部編>



【質問集】 直接質問したい、または興味を抱いた場合はこちらへ


このページの最後へジャンプ
  1. 武産合氣(たけむすあいき)とはなんですか
  2. 始めるにはどうすればいいですか
  3. いつ始めたらいいですか
  4. 強くなれますか
  5. 合氣道には試合が無いそうですね 何故
  6. 何故試合が禁じられたか
  7. 王者の武道とは何か
  8. 其程多くのことを私でも出来るようになるか
  9. 合氣道は護身術か
  10. 合氣道は美しいですね
  11. 他の団体とは
  12. 稽古の量はどのくらい
  13. どんな資格がとれるのか
  14. 稽古は厳しいのですか
  15. 他のこともやってみたいんです
  16. 技を公開してますか
  17. 色々なHPを観るが
  18. 英語のページはないのですか
  19. 経験者なのですが入ってもいいですか
  20. ネットでは様々ですが



【回答集】

一、武産合氣とはなんですか
武産は「たけむす」と読み古事記に由来します。日本を代表する武道、合氣道の源でありながらその結晶でもあります。日本人なら嗜んでおきたい武道の代表ではないでしょうか。乱りに争わず、導く道を求めるのが根本、敵をも導くが合氣道。関節技、投げ技、武器技全てにおいて大和を基調とします。日本古来の和を基調とするため、八百万の神々同様明るく、楽しく、また日之本の自然の如く変化に富んだ武道といえるでしょう。一般に、和とはなごやかなこと、仲良くすること、合わせることと理解されていますが、合氣道の示す和は別の意味を持っています。「実現に必要な行い」が最も近い答えではないでしょうか。
生まれながらに神道をそして神道を基調として育まれた日本文化に触れて育った日本人の身体に心に響き合う美しい武道です。武産合氣道は紛れもなく武ですが、日本の心を表す文化でもあるのです。初めての人にはまず、神礼(日本の源への礼)、構え、受身、体捌きの基礎から徐々に指導していきます。一年で挙措動作、立ち居振舞、何より心の持ち様など見違えるほどの変化が見られます。
  犯しがたい品格が備わると共に常に明るい心持でいられる人には、下世話な護身術など必要無いものです。我々は稽古を通じてその人各々、そしてこの国の持つ品位を高めることに主眼を置いています。合氣道は王者の武道ゆえ。


二、始めるにはどうすればいいですか
簡単です。何事を始めるのも同じですが、興味とほんの僅かな勇気が必要なだけです。稽古は常時見学可能です。また問い合わせも簡単です。いつ始めるのも可能ですが、春や秋口及び新春の事始めの会では話だけではなく実際の稽古の一端をみて体験することができます。始めは誰でも素人です。武道に興味を抱いたなら恐れや迷いを振り払うのも最初の重要なステップと心得てください。

三、いつ始めたらいいのか

心も身体も柔軟な内が最適ではありますが、早く始めても続かない人、遅くても実を掴める人等…様々です。思い立ったときがその時です。これをきっかけにすれば良いだけで、稽古の楽しみ方を知るだけでも大きな飛躍と云えるでしょう。初めての人はもちろん、何度か行ってみたけどやはりやってみたい、見てみたい、他でやっていたけど等、当会の合気道に興味がある人なら何方でも大丈夫です。ただ注意して頂きたいことは我々にとって道場は神前の御祓の場に他なりません。畏まるほどではないにせよ、品位と節度を持つ方に相応しく振る舞って頂くことが大切です。なお、春期、秋期及び新春には初心者向けの体験稽古を行います。その他の時期でも対応できる場合がありますので、気軽に問合せてみて下さい。


四、私は強くなれますか

もちろんです。但し、心せねばならない事があります。ただ楽しいから、格好いいから、というのみ、或いは、あわよくば、人を倒したいから、では武道は修められません。武道の目的としては最低である護身術にもなりません。真を求める軌道に乗れないのですから。道場と共に日常生活においても真を求めよう(万有愛護を目指す)と努力する過程で、強さや美しさが、まるで余録のように得られるものなのです。けっして他人を陥れる邪の道に立ち入ってはなりません。武産合氣(論)は武の厳しさを教える術技ではなく人間愛の大切さを身に活かす活法、必ず真の強さを得る事ができるでしょう。脇道にある人も徐々に本道に目覚めるよう導いて往きます。


五、合氣道には試合というものがありません 何故か

開祖植芝盛平翁が禁じたからです。


六、何故試合が禁じられたか

開祖の言葉にあります。合氣道は王者の武道、真の武道だからです。


七、王者の武道とは何か

敵を倒すのではなく、導くのが王者。


八、一度の稽古で沢山の技をやられているようですが、私でもできるでしょうか(見学会にて)
合氣道には万の技があります。更に私達は太刀技と杖術も同時に学ぶため、確かに目まぐるしく密度の濃い稽古となります。しかし、大丈夫です。人のやることですから、我々に接していれば直ぐに慣れてきます。我々の下でも殆どの人は全くの素人から始めます。基礎から段階を踏んで行きますが、1年経てば見違えるほどになった自分に驚くことでしょう。一度の稽古で体術だけで多いときには10種以上の技を学びますが、その広がりと深みを楽しむことが出来ます。合氣道を修めた人はその相手により、状況により柔軟に多種の技を使いこなさなければならないのです。何事も慣れですから、柔軟な発想と体技を共に段階を踏んで学んで行きましょう。また、合氣道の基礎である武器技と多種の体術稽古を重ねて行うことは頭と身体への良い刺激となり、驚くほどの効果をもたらします。是非、豊富な合氣道の技を楽しんで下さい。

九、合氣道は護身術か
確かに一般には護身術の一種、女性もたしなみ易い格闘技の一種とみられることが多いのは事実です。そういう側面もあります。精神修養、総合武術格闘術、護身術、スポーツ、無理がなく効果的な健康美容法、果ては国?も認める医療法などとと、合氣道は多くの側面を持ち、年代性別に関係なく様々な人が、始め易く、無理せずに長く継続可能な武道です。自分のやり方を見つけ出し、自分の思いを表現し易いとも云えましょうか。しかし、厳然とした核が存在します。それは「王者の武道」であること。日本の和の武道の代表であることです。丹田力や心がない術だけでは本物にはならない。武術としてとらえるのなら、度胸がないのに術だけ覚えても無意味であるのも事実です。安易な護身術の真似事は怪我の元。覚悟の無い者は気云々等の医療や健康法に止めるのが無難。それも十分可能ですが、できるだけ真を求めて欲しい。真を求めるなら時間をかけて武産合氣に接するのが肝要です。我々はその手助けをし、常に王者の武道とはなにかを胸に問い直しながら、稽古を続けています。「王者に敵はない、敵はないから勝ち負けも存在しない、ただ宇宙と一体の我があるのみ」というのが、開祖の言葉の骨子です。関節技を中心とする体術、体捌き、実に多種多様の太刀、杖の技、丹田呼吸法、そして古事記を骨格とする武産合氣論など、何年何十年経っても極めるのは困難ですが、日々の稽古を通して、それを求めるのが楽しみでもあります。各人の思いを大切にしながら、本当の明るい日本の武道を求めようと考えています。我々はみな未だ遥かな修行の途上にあり、永久に続きます。仮に、合氣から遠ざかったとしても、我々に接して修得したことはその後も永く心身の糧、生きていく原動力になるでしょう。

十、合氣道は美しいですね
ありがとうございます。我々も実はそれが好きでやっているとも言えるんです。日本(人)ならではの、美しさです。日本刀に代表される剛柔兼ね備えた武道。しかし、忘ること無かれ。これは修行の結果であって人に観せるための美しさではありません。本当の稽古を重ねないといけません。動きだけではなくその姿が真に美しく映えるには恒に変わらぬ正しさが必要なのです。人の外見がその人の誕生(生まれ)だけではなく、環境(経験)、行い、心からも育まれるように、王者の修行を重ねる必要があります。歳経るだけでは駄目です。道場稽古だけではなく日常全てが稽古の場。人を敬い、愛し、導くとも、決して驕らず、陥れず、羨まず、清らかな心を保てる人こそ美しい。それが姿形に反映されるのです。「飾らぬその姿は心を映す鏡」にほかなりません。」
合氣道(武産合氣)の考え(教え)に触れつつ、正しい稽古を長年経た人なら、強さを内に秘め心身共に清らかで美しく健やかであるはずです。
どこに行ってもどの場に臨もうとも日本人として生まれた誇りを拠とすることができるでしょう。

十一、他の団体とは
合氣道は一つですが、各々所属する団体や指導する人が異なります。人が違うということは内容も各々の特色があるということです。これも合氣道の包容力を表しています。我々のことやその内容の一端は他のページでも述べている通り。また、第三者が他者のことを云々するのは人として最も慎むべきこと。人の真(まこと)は自ら接しなければ分かりません。何のために武道を習いたいのかを胸に問い直してください。最も重要なのは真の武道、合氣道を修得する機会があるということ。我々には真を貫いているという自負がありますが、他者と比較してもどこにも真は見つかりません。心を先入観や噂さらにはしがらみからも解放し曇りなき眼で見つめ、自ら実践しなければならないのです。畳の上だけが稽古の場ではありません。我らが限られた時間の中で共にするのは舞踊ではなく実践に基づいた武道です。 踊りが得意な三文役者には最も不適な(居心地が悪い)場であるかもしれません。

鞘はいくらでも飾れますが、刀身は磨くしかありません。精進を怠れば錆びて朽ち往くのみ。真を見つめるのが我々と自負しています。

十二、稽古量はどのくらいか
十分な稽古量とは云えませんが、少なくともこれくらいはという時間です。やはり初めの内は稽古量で決まります。それでも、毎回の稽古に殆ど出席できれば、概ね三〜五年で段位を取得できます。一般的な体技の繰り返しではなく、多様な武産合氣の武器、体術に触れることが、頭と身体への良い刺激となり、却って時間の不足を補って余りある効果をもたらしています。合氣道の武器技を受け継ぐ会派はあまりに少数ですが、合氣道体術の基本は武器技です。上澄の体術一方ではなく、刀や杖の操作に習熟してこそ太刀取、杖取が可能になるのです。まさに合氣道の体得に繋がります。

十三、どんな資格がとれるのか
合氣道(武産合氣)の各級段位です。これらの級段位はその時点までの自分の稽古の目標であると共にその証です。これを稽古の励みや自信の源にするのが最も大切な意味(本来の姿)と云えます。武道を自分の背景に据える事の大切さ、そして面白さを理解してくれたらと思います。但しひとたび修行(身体の修行、心の修行其々を通して魂魄の修行)を怠れば、かつてどんな高段位を獲得していようと無以下に堕すことをわきまえていなければなりません。合氣道に限らずどのような資格であろうと、結局精進を怠れば内実は虚しい人爵に過ぎないのです。しかし、我々の合氣はしばらく接しただけで将来に資する芽となってあなたの心身に残り、生きていく心の拠り所となりうると自負しています。
昇級段審査の受審は必修ではありませんが、稽古の励みとするために奨励しています。

十四、稽古は厳しいのか(見学会にて)
稽古は、稽古次第や技の欄でも少し紹介しているように神道礼から始まり、準備運動、基礎運動、関節技・投げ技を中心とした体術、太刀(一刀、二刀)を用いた剣術そして杖術、目に映り難いものの最も大切な呼吸法です。その人のやり方・心の持ち方次第ですから、自分で楽にしようと思えばそうできますし、逆もまた自分次第です。
当会の審査会を体験すると厳しいと感じる人が多いのは事実ですが、武道武術が楽にできるというのは、或いは和気あいあいなどと称するのは欺瞞以外の何ものでもありません。痛みや厳しさを知らぬ者が強くなれるはずもなく、人を導くことなど思いもよりません。しかし上記したように人を信じる人間愛に基づく生成化育の道ですから、教える際はその人に合わせた基礎から段階を踏んで、まず慣れていってもらいます。武道ですからある程度の覚悟は必要ですが、信じる勇気があれば誰でも楽しめるように身体が慣れてきます。そして面白さに気づくはずです。武産合氣は誰にでも容易に始めれる武道です。

十五、他の趣味をやりながら合氣道したいんですが
特に規制はありません。人の幅を広げることから、合氣道以外の話題を持ち込んでくれることはむしろ歓迎しています。実はそれが心豊かに合氣道を楽しむ(楽しく合氣する)コツの一つでもあるのです。コチコチに固まっては合氣道は楽しめません。軸足を武産合氣道においていれば、進度は遅くとも大切なことを学ぶことは可能と思われます。但し、道場は人の集まりですから、各々があまりに勝手では成り立たないことも理解して下さい。審査会での受けのように会員の協力が必要になることもあります。それが稽古になります。さらに、上達には稽古の量と質そして継続が求められるのも揺るがせない事実です。

十六、技を公開してもいいのか
一般的な合氣道の技(のように見える)は既に各種の媒体で多数公開されています。しかしそれらの技は、既に知った人があらためて見直す或いは反面教師にするのに多少役立つものに過ぎません。もはや、触れたらコロコロ転がるのを合気道だと思う人は少ないと思いますが、体操を合気と称するのは日本の恥です。我々が演武などで公開する技も、映像で形を真似ただけでは本物には到底なり得ないのです。魂魄の修行を経ずに真の合氣道は習得できません。その体系を知らずに部分的に真似るのは滑稽な猿真似。その様な人は結局何事でも本質には至らぬままでしょう。

十七、本当のところはどうなのか
誰がやっているか分からない、或いはやたらと既存の看板(組織)を前面に出すが、肝心な中身は人は…。ということが武道だけではなく何にでもよくあります。人のやることですから、完全はあり得ない。また、色々あるから逆に面白いとも云えます。我々の中身は来てみて体験し更には何年か継続して判断してもらうしかありません。少なくとも精進を怠ることはありません。合氣が好きですから。 自信の無い者や小悪人は決して本当の自分を表に出しません。他の権威をあてにしてその皮を被るものです。その人の真を知るには、困難に立ち向かうとき、辛いとき哀しいときにどの様に振る舞うかを見るしかありません。一方、自分を出すのに必要な骨格となるのが、理想理念です。何人もどんなものにも万能はあり得ませんが、理想は大切です。理想は人にしか掲げられません。それに邁進する強い力、実力、そして忘れてならない美しさ。内面の美(不正不義不実を憎むが人は愛し導き、自らは正義を重んじて正しく行う)が外に滲み出すと信じています。二十参照。

十八、英語版はないのですか
ありません。今後も作りません。合氣は我々日本人の血、その想いで毎日修行を重ねています。数を求めての安易な大衆化普遍化は行いません。
武道では必ず古(イニシエ)の神への礼を行います。日之本の神から生まれ受け継いできたのですから、八百万(ヤオヨロズ)の神々にまず挨拶をするのです。日之本の神、それに我らの祖先の魂への礼が第一。
従って、我々の言葉で真を伝えなければなりません。まず、真摯に日本を愛し学ぶ心を持つことこそ肝要。少なくとも、合氣は(武道は)この国に生まれ育った日本人に学んでください。合氣道に限らず、武道とはすなわち日本を意味します。武を道とし人の生き様と考えたのは我らの祖先に他なりません。

十九、他で習っていたのですが
もちろん歓迎します。共に誠を尽くして合氣を深めましょう。真に出会えるかどうかは属する師次第です。経験があるのに我々の下を訪れるからには正に真を求めたいという熱意があるものとみられます。全ての武道武術に当てはまりますが特に自戒を込めて、時を経て奇妙滑稽な踊りと化した合気道を正すのが我々です。丹田力もなく氣を云々することはできません。少しずつ目を開けるようにしていきます。もちろん楽しみながら。
他流経験者の主な課題は、多くの場合、武器技(剣術、杖術)、座り技、腰技、言霊合氣、さらに呼吸法の習得になります。力を使わないのが合氣道ではなく、上手く使うのが合氣道です。力一方の男性のみではなく女性でも嗜み易いというのはその現れの一つに過ぎません。
何事も僅かな勇気と素直な心が新たな段階へと自分を押し上げる契機になるものです。

二十、インターネットで
高松武産合氣會開設前の平成十年前後迄は思いもよらず、今では合気道だけではなく全てのことがネット上に散乱しています(その設計上当然の帰結ではあります)。ときおり誰かが纏めようとしても結局纏めようとする人の主観に過ぎないことが露見するか、上手く宣伝した方がよいということになります。(上記17も参照)少なくとも我々が明確に示せるのは武道で活計(タツキ)を得ないという開祖の教えを守ることです。開示する会費は安くも高過ぎもしませんが、汚れには寄らず、生計は他に求めること。各自の精進によって我々の正統と清心を保ち、それを理解して頂ける人に必要な負担をお願いしています。ITは勿論メディア経由ではその人を知ることはできない事は論を待たないと思いますが、人は感情の動物ですから多くは気に入るか気に入らぬかそれのみかと、我々も来てみて判断して貰うほか真を理解して貰う術はないと思っています。我々の稽古は厳しく、安直に武の真似事を求める人には不向きですが、一人でも共に真を求める人がいれば本望です。子供や学生の限定演武以外は対外行事を禁じられ映像もほぼ禁止で、武芸として垂れ流すことは堅く戒められているため、言葉を並べるしか術がありませんが、真に武術・武道を修めようと訪れてくれた人には武産合氣の多種体術、呼吸法、剣術、杖術、二刀法、相対術、武産合氣の神髄を伝える努力を続けています。




このページの始めに戻る


公開ページ表紙へ戻る

高松武産合氣会へ