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大東亜戦争 開戦の詔書
日本が大東亜戦争を決意せねばならなかった皇紀2601年(昭和16年、西暦1941年)の冬、東洋で唯一どころか非白人国で唯一の独立強国であった日本の台頭を許さない欧米の思惑とコミンテルンに浸透された米国、自国民への殺戮を繰り返していた独裁者スターリンを首魁とするソ連共産党のアジア侵略の思惑、これも前後に自国民を虐殺し尽くした毛沢東の掌握した支那(中国)共産党、大局をみれず結局浸透を許したコミンテルンに踊らされ悪戯に日本を挑発する蒋介石の国民党、そして開戦に向かって画策した近衛文麿と彼が利用しようとした共産主義者達の思惑のまま、歴史上初めて敗れることになる戦争に引き込まれてしまいました。
しかし、当時は上記の思惑により日本は所謂ABCD(米国,英国,支那,オランダ)包囲網の中で国家の存立が脅かされた状況でした。米国から石油や鉄など主要な原材料の輸入を止められ、必須である多くの物資があと少しで枯渇する状況にあったのです(この異常な禁輸措置などまさに日本人を人と見ていない証拠)。その上、米英は日本を疲弊させるために蒋介石軍へ膨大な物資を援助し続けており、支那事変の泥沼化を謀りました。日本軍は強く戦闘では決して支那に負けませんでしたが、米英とソ連から、そして隠れてドイツからも援助を受ける蒋介石軍は駄卒の群れながら雲霞のごとく蘇り日本軍を戦地に縛り和平を望む日本軍を苦しめたのです。南京事件と称する虚構も米英が国民党軍を支援するために、南京陥落時に当地に居残っていた米国人を中心とする欧米人宣教師を使って当時の南京の人口を遥かに超える虐殺があったなどと虚構を作り上げたのが発端です(例えば産経新聞「一次史料が明かす南京事件の真実」参照)。ちなみに略奪暴行が横行する支那全土で、軍規が厳しく元々礼儀正しい日本軍占領地は日本の庇護を求めて現地の一般支那人が集まってくるほど日本軍は現地で信頼されていたというのが真実です。
大東亜戦争の開戦に強く反対されていた昭和天皇は、御前会議の折によく知られた明治大帝の御製(和歌)に倣って詠まれ、理不尽な諸国特に米国の狂騒を嘆き、不本意にも開戦を許諾せざるを得ない苦しい御心の内を表されています。
「 四方の海 みなはらからと 思ふ世に
などあだ波※の 立ちさわぐらむ 」現代口語訳)「外国も日本も兄弟のようなものなのに、なぜ敵国は次々と戦に向かうべく仕掛けてくるのだろう」
※あだ波:米英支ソ(敵国)が日本を大戦争に引き込もうと貿易封鎖や領土放棄の要求等様々な人種差別的で邪な仕掛けをして騒ぐこと。明治帝は「波風」とされた。
昭和の始めは世界の殆どが欧米(白人国)の植民地と化しており、日本はアジアで唯一の独立強国。近年、林千勝氏等の研究により一般にも知られるようになってきた日本の当初の戦略(東ではなく西に進む)に沿っていれば、米英に勝てていたかもしれぬ、そして三百万以上の同胞を失わずにすんだかもしれぬ、国体への危機もなかったかもしれぬ、米ソの専横や日本の諸制度・文化の破壊工作、米国の威を借りた周辺国からの邪な浸透・破壊工作を防げていたかもしれぬ。
悔みに悔やみきれませんが、これが歴史。さらに言えば戦後隠されたことが沢山あります。戦後7年間も日本を統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は米英の国際法を無視した残虐行為を隠して日本軍に汚名を着せました。日本人を徹底的に封じ込めるために自虐史観を埋め込み、自由化の偽名の下に社会制度や伝統的文化の多くを破壊しました。郵便・通信検閲や保守的な文物の焚書も徹底的でした。日本軍が大東亜戦争中に行った軍事機密漏洩防止が目的の検閲ばかり論われますが(自称公共放送等により)、実際は米国の検閲の方が遥かに徹底的で非道だったのです。GHQが去った後も後釜に据えた共産主義者達が日本人から真実を奪い貶め続けてきました。
しかし永遠の軛はありません。時代は巡るものであること、そして国士たる人々の努力、両刃の剣ながら技術が進歩したことも寄与して、今や知ろうとすれば真実を知ることができるようになりつつあります。これから特に戦前から戦後、さらに現在までに何があったか起こったか、正しく認識して次の世代その次へと日本を繋ぎ、必ず真の独立を取戻さねばなりません。そして絶望の中で日本を守ろうと戦い続けた祖先に恥じない独立強国へと蘇らねばなりません。
我ら日本人が考える平和とは古代から互いに和となす真の平和(十七条憲法参照)、しかしそれは現代でも日本人以外には全く通じず心から理解されることはありません。仮に理解し合えたように見えても実は利があるからに過ぎません。同じく、日本に産まれた合氣の真意(合氣道の誠)そしてその奥義(技)は外国人が会得することはありません。現代においても強者の論理が心底にある外国人が至れるのは見た目に分る技術のみです。合氣道だけではなく空手道や剣道、柔道なども実は同じく日本人であるからこそ至れる領域が厳然とあり、日本の武道を概形だけ真似た近隣国の武術などが非常に軽いのは逆説的ながら同根なのです。気懸りもありますが、たとえを少し挙げれば、子供こそ神に近く、弱者こそ敬うべき存在であることすらある日本の文化の中で日本人として育った者にしか理解し得ぬものなのです。
令和五年/武産合氣會
参)終戦の詔はこちら
(詔書の現代口語訳は下へスクロールするかここから移動し最下タブをクリック)
「詔書」宣戦布告ノ詔書
(米英両国二対シ戦ヲ宣ス)
詔 書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日
各国務大臣副書